ベクレルだのシーベルトだの、
ヨウソだのセシウムだの、
内部被爆だの石棺だの、
昔は知らなかったボキャブラリーが巷を駆け巡り、こんなの知らずに一生を送れてたらシアワセだったんだろうか?なんてちょっぴり考えてしまうこのごろです。
系統的なお勉強はなかなか時間がとれませんが、それでも原発のこと、放射能のこと、機会があれば情報をゲットしようと頑張っています。
大地を耕し、野菜や米を作る農家にとっては、放射能汚染は本能的な恐怖です、多分。
神奈川の新規就農者にとってすらそうなんだから、先祖代々の土地を耕している農家や、ここよりももっと福島に近い農家はさらにせっぱつまったものを感じていると思います。農業だけじゃない、漁業だって、林業だって、牧畜だってそうでしょう(キノコ栽培って林業なんですってね、知りませんでした)。
まわりの有機農家は、そんな底知れないリスクを持つ原発からはもう脱却しなきゃいけないと、ほとんどが思っているようですが、世論はどうなってるんだろう?と気にかかっていました。
聞こえてくる町の意見では、安全性は大事だけど、原発がなけりゃ今の生活はなりたたないんだから、原発を廃するというのは非現実的、みたいなものが多かったからです。
そんな中、とあるBBSで教えてもらったこちらのブログ記事。
http://d.hatena.ne.jp/box96/20110313/1299988959
原子力を推進してきた側の論理と、問題点を提示してきた側の論理を羅列してあります。
電力会社とマスコミの関係などにも触れてあり、初心者の私にとっては、すごく分かりやすくて、よくまとまっていると思われたページです。
この比較羅列自体も面白かったのですが、もう一つ興味深い内容がありました。
実は著者は高校(おそらく都内の)の先生で、この羅列を元に高校生に、自分が原発誘致対象の過疎地域に住んでいると仮定して、原発誘致に対してどういう態度を取るか考えさせる、という授業を行っているのだそうです。
過去に行った授業での結果がこちらの下の方に出てきてるのですが、これが興味深い。
授業で提示された内容を私なんかが見ると、原子力なんてまっぴらご免だと思うような中身なんで、これだと高校生は殆どが原発反対の意見を持つようになるんじゃないかと思ったんですが、現実はそうではなかったんです。
男子では3割が、女子では1割が原発誘致に賛成
なのだそうです。
この男子3割、女子1割の記述を読んで、個人的に目からうろこというか、ああそうなんだとものすご~く納得しちゃったことがあります。
(済みませんが、ココから先、理屈なしで飛びます)
これって、昔だったら、自分の部族が全滅するリスクがあっても、隣の部族に戦争をしかけて略奪を行うか、それとも略奪品によって潤うことのない、かつかつの生活しかできないけど、戦争のリスクをおかすのはやめとくか・・・みたいな対立と一緒じゃないんだろうか?
リスクをおかしてでも成功を目指すとか、リスクをおかしてでも金を稼ぐとか、そういうのってなんとなく男性の方が割合が多そう・・・(済みません、このあたりもデータ無しです、直感のみです)
原発反対VS原発容認、って、実は本能どうしの対立、欲望どうしの対立だったんだ。
感情的に原発反対っていってもしょうがない、もっと科学的に考えなきゃ・・・という言い回し、よく聞かれるようなんですが、でも、これって実は本当のところはつきつめると感情どうしの対立なんじゃないか(感情という言葉はちょっと語弊があるかもしれませんが)? 科学も理屈も論理も後追いでついてくる。
土地だの海だの、自分の足がよって立つところの場所を大切にしたい、という本能と、
土地だの海だのよりも、成功だの繁栄だの便利だのを享受したい、という本能。
土地だの海だの、自分の足がよって立つところの場所を汚されたくない、という欲望と、
成功だの繁栄だの便利だのを享受できなくなるのは嫌だ、という欲望。
(誤解を恐れずに言えば、私は後者の本能、欲望を否定するわけじゃありません。これって、あくまでも人間らしいというか、人間を人間たらしめている側面の一つ(が強烈に出ている)じゃないかと思っているので)
でも、少なくとも科学やデータや理屈で理想的な未来を導き出すんじゃない。
(科学やデータや理屈は大事だし、それを抜きにして議論はできないのは重々承知の上だけど)ものすごく荒っぽく言ってしまえば、まずは本能で未来の方向を個人個人は選んでいる、そのことが男子3割、女子1割の記述から浮き上がって見えてきたんです。
おそらくいつの時代にも似たようなテーマはあったのかもしれません。
原発反対VS原発容認
戦争反対VS戦争容認
どこかもっと良い土地を求めて旅に出るVS貧しくても旅の危険をおかすよりはここにとどまる
そしてそれぞれの時代に世論調査を行ったら、男子3割、女子1割に近い結果が得られたのかもしれません。
なにかものすごく人間の本能的なところに根ざしている対立の型。
問題は現代になるほど、リスクの質がものすごくとんでもなく大きくなっていること。
科学やデータや理屈は議論の上で欠くことができない要素だけど、それだけで議論ができると思ったらきっと大間違いなのだ。
本能や欲望の底をじっと見据えることでしか見えてこないものがきっとあるのじゃないか。
そういうことをつらつらと考えてしまいました。